こんにちは、ヒデ(@hideto1939)です。
今回はオピニオン記事です。最近、「マイノリティ」について考える機会があったので、つらつらと書いてみたいと思います。
完全にオピニオン記事なので、興味のある方だけご覧いただけたらうれしいです。m(__)m
では、始めます。
マイノリティってなに?
あなたは、「マイノリティ」と聞くと、何を思い浮かべますか?
おそらく、大多数の人が社会的に「少数派」だと言われている人々、たとえば、身体障害者やLGBTの方々を思い浮かべると思います。例外はほとんどないでしょう。
しかし、僕はここに違和感を感じます。
自分のことをマイノリティだと思う人はほとんどいない
「マイノリティ」と聞いて、自分のことを思い浮かべる人はほとんどいないでしょう。
それも当たり前です。学校教育では、散々「マイノリティを受け入れよう!」と言われてきましたから。あたかも、「自分たちはマイノリティではないから、マイノリティの人たちを受け入れよう」みたいな言い方をされてきたわけです。
これでは、社会全体がそういう思想に染まってしまっても仕方ありません。
しかし、そんな「自分」は本当に「マイノリティ」ではないのでしょうか?
マイノリティでない人なんかいない
僕は思います。「マイノリティじゃない人なんかいないよね」って。
だってそうですよね。自分と全く同じ人間なんて、この地球上に一人たりともいないのですから。
ということは、どんな人でも、何か一つは社会的にマイノリティな一面をもっているはずです。
それが、身体的な特徴なのか、はたまた精神的なものなのかは分かりません。しかし、必ずマイノリティな面はあるはずなのです。
現状のマイノリティ=何らかの名前がついている人々
今現在、社会的に「マイノリティ」だと言われている人は、無数にあるマイノリティの中で「名前がついているもの」にすぎません。
たとえば、「障害者」であったり、「LGBT」とかですね。彼らは、単に「名前がついている」から、マイノリティと言われているに過ぎないのです。
細かいところで見たら、名前がついていないだけで、社会的にマイノリティなことなんか無数にあるはずです。しかし、それらには一切目を向けず、いわゆる「普通の人」として扱う。そこに違和感を感じます。
マイノリティって、人間が勝手に決めた枠組みでしかないよね
今現在、「マイノリティ」と言われている人たち、たとえば障害者やLGBTとかって、結局のところ人間社会が勝手に決めた枠組みでしかないんですよね。
例えば、目が悪い人々のことを、われわれは、「障害者」だとは思いません。しかし、メガネが開発される前までは、間違いなく目が悪くて見えない人は、「障害者」だったはず。
ですから、今現在マイノリティと言われている人たちが、今後も「マイノリティ」と言われていく必然性はまったくありません。つまり、マイノリティの定義というのは、流動的に変化していくものなのです。
「だったら『マイノリティ』って言葉必要ないよね?」って僕は思うのです。みんなまとめて『人間』でいいじゃんって。
「マイノリティを受け入れよう!」違和感を感じる
ここで記事タイトルに戻ります。
今の社会は、自分だって名前がついてないだけで、社会的に「マイノリティ」な一面は持っているはずなのに、あたかも自分はマイノリティではないかのように「マイノリティを受け入れよう!」と言っている。ここに違和感を感じます。
あたかも、自分たちは「普通」で、マイノリティの人たちは普通じゃないから、マイノリティの人たちを受け入れてあげよう、みたいな傲慢な印象を受けるのです。
どこかマイノリティを下に見ている感覚といったら良いでしょうか。明らかにフラットな関係性ではないと思います。
見えない壁を取り払う必要がある
そもそも、マイノリティというくくりがあること自体がおかしいと思います。そのくくりがあるせいで、余計に、「マイノリティと言われている人たち(障害者やLGBTの人たち)」が社会に溶け込みにくくなっているのではないかなと思います。
障害があろうがなかろうが、同じ「人間」です。それ以上のくくりはいらないのです。
マイノリティな面を持っていない人などいないのですから、そうやって、マイノリティとマジョリティを分けること自体が無駄な作業です。もっと「フラット」な社会にしていく必要があると思います。
もちろん、誰もが生きやすいようにインフラや制度を整えていくことは大切です。しかし、だからと言って特定の人を必要以上に「特別扱い」する必要はないのかなと思います。
論点を間違わないこと
今の社会は、論点がずれてしまっているような気がします。
まず、マイノリティとマイノリティではない人を分けることが、問題を考える上での「前提」となってしまっているのがおかしいと思います。
まずはそこの壁を取り払うところから取り組んでいく必要があります。本質的な議論をせずに表面的な議論だけしていても、社会は変わりません。
どうすれば社会は変わるか
はっきり言って、日本は、同調圧力が強すぎます。「みんなが同じでないといけない」みたいな空気感が強すぎです。
それが「生きづらさ」を生んでいるのかなと思います。
では、どうすればそういった社会を変えることができるのでしょうか?
まずは知るところから
まずは、「知る」ことが大事だと思います。
今現在「マイノリティ」と言われている人たちの声に耳を傾けることで、彼らもなんてことない普通の人間だということを「知る」。
それが、壁を壊すことにつながるのではないかなと思います。
常識を疑う
生きていると、常識でがんじがらめになってしまいます。しかし、それでは新たな価値観を受け入れることはできません。
ですから、「常に常識を疑う」ことは非常に重要です。例えば、「本当に自分はマイノリティではないのか?」と疑ってみる。そうすることで、「誰もがマイノリティの面を持っている。今現在『マイノリティ』と言われている人たちは『マイノリティ』の中のほんの一部に過ぎない。」ということに気付けるはずです。
常識を疑うことから始めましょう。
おわりに:フラットな社会へ
完全に勢いで書いたので、主張が分かりずらくなってしまった部分もあるかもしれません。最後にもう一度僕の考えをまとめておきます。
- 今現在「マイノリティ」と言われている人たちは、単に「名前」が付いているから「マイノリティ」というくくりに入れられているに過ぎない
- マイノリティだとか、マイノリティじゃないとか関係ない。壁を溶かして、単にみんな同じ「人間」としてのくくりだけで良いと思う。マイノリティな面を持っていない人なんかいないのだから
- 誰もが生きやすいようにインフラ、制度を整えることは大切だけど、そこに「特別扱い」は必要ない。あくまでフラットな関係性で
概ねこういった意見です。「マイノリティ」とか関係なく、良い意味で「フラット」な社会になってほしいなと思います。
この記事での僕の主張で、嫌な思いした人がいるかもしれません。すみませんでした。しかし、自分の意見がすべての人に受け入れられるとは当然思っていません。反対する人もいれば、賛成する人もいて当然です。それを承知でこの記事を書きました。
世の中には、いろんな人がいます。色んな価値観を持った人、コンプレックスを持った人がいます。誰もがマイノリティな面を持っているのです。まずはその事実を受け入れつつ、常識を疑い、新たな価値観を柔軟に受け入れる。それが大事なのかなと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
少しでもあなたに「マイノリティ」について考えるきっかけを与えられていたら幸いです。
では。m(__)m
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